ウリ・ジョン・ロートとジミ・ヘンドリックス


8月31日に映像作品/CD『トーキョー・テープス・リヴィジテッド~ウリ・ジョン・ロート・ライヴ・アット・中野サンプラザ』を発表するハード・ロック・ギターの現人神、ウリ・ジョン・ロート。世界のギター・キッズやファンから崇拝されるウリだが、彼自身が敬愛するのがジミ・ヘンドリックスだ。

◆ウリ・ジョン・ロート画像

『トーキョー・テープス・リヴィジテッド』に収録された2015年2月10日、東京・中野サンプラザでのライヴでも「見張塔からずっと」「リトル・ウィング」というジミでお馴染みのナンバー(前者はボブ・ディラン作)を披露。大声援を浴びたウリに、ジミ・ヘンドリックスの魅力と彼からの影響について語ってもらおう。

──2015年の日本公演のアンコールでは「見張塔からずっと」「リトル・ウィング」というジミ・ヘンドリックスでおなじみの2曲をプレイしましたが、これらの曲を選んだのは何故ですか?

ウリ・ジョン・ロート:どちらとも私の尊敬するジミ・ヘンドリックスを代表する曲で、スピリチュアルな面で私と接点を感じるからだ。私はこれまで、多数のジミ・ヘンドリックス・ナンバーを演奏してきた。初期の「紫のけむり」や「ファイアー」「ストーン・フリー」など、いずれも素晴らしい曲だ。でも、それらの曲からはスピリチュアルなメッセージを感じない。自分で弾いて、魂の部分で接点を感じるのは中期以降のナンバーなんだ。『アクシス:ボールド・アズ・ラヴ』でジミは新たなレベルに到達したと思う。後期の「マシン・ガン」なども素晴らしいけど、「リトル・ウィング」はパーフェクトな音楽だ。究極の名曲のひとつだよ。この曲をステージで演奏できるのは、私にとって名誉だ。そんな名誉を、可能な限り多くの人々と共有したいんだ。「見張塔からずっと」も名曲だ。私はボブ・ディランの書く曲が大好きだし、ジミの視点から捉えたボブ・ディランというのはスペシャルな経験だ。それに私自身のちょっとした解釈を加えることで、3人のミュージシャンが一体化したようなヴァージョンにしているんだ。

──ジミ・ヘンドリックスのライヴを見た経験について教えて下さい。

ウリ・ジョン・ロート:私は2回ジミのライヴを見ることができた。1回目は1969年1月ハンブルクのムジークハレでのことだった。人生が一変した。文字通りエクスペリエンスだった。心底ショックを受けたね。2度目に見た1970年9月6日、フェーマルン島の<ラヴ&ピース・フェスティバル>でのステージも、忘れ得ないステージだったよ。この日のショーはジミの生前最後のライヴだったんだ。ジミは前年に見たときから変化していた。前回の方が良かった、と思ったよ。もちろんジミのライヴだからやっぱり凄いけど、何かが違っていたんだ。午後で、雨がまだ降っていたけど、空に虹が出ていたのを覚えている。それから10日後、彼は亡くなってしまった。

──フェーマルン島のフェスはどんなものでしたか?

ウリ・ジョン・ロート:フェーマルンは1960年代の終焉であり、1970年代の始まりだった。時代のターニングポイントだったんだ。この頃はまだウッドストックの残滓があった。雨が降っていて、ドロだらけで…フェーマルンはバルト海に浮かぶ島で、3日間のフェスに3万人か4万人の大観衆が集まっていた。私は15歳で、初めてのロック・フェスティバル経験だった。私の父がジャーナリストで、フォト・パスを持っていたから、私もバックステージに入ることができたんだ。たくさん写真を撮ったよ。マミヤの2枚レンズがあるプロ仕様のカメラだったけど、その日は雨が降っていたし、良い写真が撮れなかったんだ、そのときの写真はどこかにあると思うけど、公開するつもりはないよ。

──フェス名が<ラヴ&ピース・フェスティバル>という、ずいぶんベタなものですね。

ウリ・ジョン・ロート:うん、でもある部分がウッドストックで、ある部分がオルタモントだったんだ。ヘルズ・エンジェルズみたいな連中がフェスティバルを仕切っていて、バックステージで喧嘩があったりして、緊張した空気が流れていた。私のすぐ隣でも、異なったチームのメンバー同士によって殺し合いが起きようとしていた。ジミがステージに向かう階段のすぐ側で「殺っちまえ、ハンズィ!」とかやっていたんだよ。幸い誰も死ぬことはなかったけどね。でも私はその場にいられるだけでハッピーだった。ただ、その直後にジミが亡くなるなんて想像もしていなかった。ジミは私の故郷ハノーファーでライヴをやる予定だったんだ。9月17日、彼が亡くなる前日のことだよ。でもフェーマルン島での公演の後にベーシストのビリー・コックスが精神疲労でツアーを中止して、全員がイギリスに戻ってしまったんだ。

──当時、ライヴ会場での暴力・破壊行為はよくあったのですか?

ウリ・ジョン・ロート:死人が出たりはしなかったけど、私の知る限りでも何度か暴動が起きたことがあった。記憶に残っているのは1972年、ハノーファーのニーダーザクセンハレでのベック・ボガート&アピス公演だ。1970年に生前のジミがプレイするはずが、中止になってしまった会場だよ。3曲ぐらいプレイしたところでティム・ボガートが観客に何かを言って、バンド全員がステージを降りてしまった。詳しい事情は判らないけど、野次か何かを言われたんじゃないかな。ライヴが途中で終わってしまったことで、みんながボトルをステージ上に投げ込み始めて、ステージが破壊されてしまったんだ。それと1973年、ドイツのシーセル・フェスティバルでステージが放火されて燃えたのを覚えている。そのとき私はもうスコーピオンズをやっていて、ステージに上がるちょっと前のことだった。

──あなたは生前のジミの恋人だったモニカ・ダンネマンと生活を共にしていましたが、彼女とはどのようにして知り合ったのですか?

ウリ・ジョン・ロート:モニカと初めて会ったのは1970年代前半、ロンドンのどこかのクラブだった。意気投合して、スコーピオンズのマーキー・クラブでのショーに来てくれた。そうして交際が始まったんだ。モニカとは20年間、一緒に過ごした。亡くなってしまって哀しいよ。

──モニカはどんな方でしたか?

ウリ・ジョン・ロート:彼女はフィギュアスケートの選手でアスレチックな人だったけど、精神的にもスピリチュアルな部分を持っていた。ジミとモニカが付き合っていた時期は決して長くはなく、1969年から1970年の間の実質数週間だったけど、ジミは彼女の多くのことを教えていた。自分の歌詞を深く知るためのヒントを幾つも与えたんだ。モニカは1996年に亡くなってしまったけど、ジミと話した会話などを共有してくれたよ。もしジミと出会っていなくても、彼女はとてもスピリチュアルな人間だった。でもジミが彼女を目覚めさせたんだ。

──ジミを描いた映画『JIMI:栄光への軌跡』はご覧になりましたか?

ウリ・ジョン・ロート:数年前に話だけは聞いていたけど、正直あまり関心がなかった。でも最近、たまたまNetflixでその映画があったんで、観てみたんだ。まあ、興味深い映画ではあったよ。ただ、ジミ・ヘンドリックスという人間の真の姿はまったく描かれていない。ジミの話し方やアクセントも巧みに模倣していたけど、ジミのスピリチュアルな側面はまったく描かれていなかった。もしジミについて知りたかったら、この映画はあまりオススメできないよ。もっとちゃんとした形で作ることができたはずだ。それが私のコメントだ。

──現在ジミの音源や映像は、遺族を中心とした財団『エクスペリエンス・ヘンドリックス』の管理下にありますが、あなたは彼らとどのように関わっていますか?

ウリ・ジョン・ロート:ジミの義理の妹で遺産を管理しているジェイニー・ヘンドリックスはモニカの友達だったから、我が家に3日間泊まりに来たこともある。最近ちょっとご無沙汰しているけど、基本的に友好的な立場だよ。

取材・文 山崎智之
Photo by Mikio Ariga

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